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最明寺縁起

engi-01.jpg當山の由来は、鎌倉幕府執政北条相模守平時頼が弘長二年(1262)に創建した事により始まります。

最明寺 鎌倉幕府初代執権北条時政により、伊豆修善寺に於いて暗殺された源氏二代将軍源頼家の二男である千寿丸が落ち延びて出家し、瑶光房道円と名を改めこの地で草庵を結び貧しい生活をされていたと伝えられております。

一方、北条氏は二代義時、三代泰時、四代経時と、名ばかりの将軍を立て自らは執権となり思うがままの政治を執ってきましたが、五代時頼は非常に信仰心あつく慈悲深い人で、執権職十一年にしてその職を六代長時にゆずり、民の暮らしを見聞し悩める人を救うべく、出家して最明寺入道学了道崇と改名し、諸国行脚の旅に出た事は太平記でも明らかにされています。

偶々、当地において草庵に暮らす御老僧(千寿丸)に参会し、その有様を気の毒に思い、行脚の後鎌倉に立ち返り、時の将軍に源氏供養の為に寺を建立すべく奉聞した処、早速お許しを賜り、時頼自ら金壱百五拾貫を寄付し建てられたのが当寺で、瑶光房(千寿丸)をこの寺の別当職に任じ鎌倉(幕府)同様に敬崇すべく七百石の御朱印地を賜り、瑶光房を山号とし瑶光山最明寺と命名しました。

建立された七堂伽藍(本坊を中心として、周囲の六坊の建物)は輪美を尽くし、末寺の数も多く仏法の勝地として栄えましたが、幾度かの戦火により悉く焼失しました。

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その後、川越喜多院に天海僧正が入られ末寺とし天明七年(1787)寺を復興し、爾来幾星霜、苦難を乗り越え往時の盛観及ばずと雖も法灯連綿として今日に至っておりましたが、老朽著しく昭和五十三年に現在の本堂を再建いたしました。

今のお堂は昔の本坊の跡で周囲二粁に亘り六坊の跡が地名として残っています。

 

 

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最明寺の整備された境内では、春にしだれ桜やツツジも鑑賞できます。

インドアビューで、見渡せます。クリックしながら動かすと、上下左右をご覧いただけます。